7ちゃんねるーふみねぇ支店

アラサーニートのよしなしごと

呟き14:露悪的な。

敢えて露悪的な話をしよう。

人の悪口を言うのって、楽しいよな。


人間の素朴な笑いとして、「誰かの行動を見て、面白いと思って笑う」というのがある。
その人が意図的に面白いことをしようと思っているパターンと、そうではないパターンのいずれかになるが、それが「意図的ではなかった」場合、概ね悪口になる。言い過ぎかもしれないけれど、その笑いに相手を馬鹿にする感情が欠片もないかと言われたら、「あり得ない」と言いきる人がいたら、聖人だと思います。そういう人はいっそ、お近づきにはなりたくないですね。

悪口は、楽しい。 

ただ、面白くなりすぎてつい尾ひれをつけて話すうち、後から「あの子が一番悪口を言っていた」と言われることがままあったので、今では基本的に言わないようにしている。

どうして悪口は楽しいのだろう。

人との会話で大切な要素のうちで、共有と共感があると思うが、それがエスカレートするうちにいつの間にか悪口になっていることがある。
ある人の行動を「共有」して、そのときの感情を「共感」し合う。日頃の鬱憤と、理性では「悪いこと」だとわかっているからこそ、面白いのかもしれない。だから、増幅する。些細なことが二倍にも三倍にも簡単に膨れ上がってしまう。


「共感を得られる」というのがとても重要で、ここに温度差があると見事なほど空振りに終わる。そして、それが相手にとって「本当に共感できるかどうか」という見極めはとても難しい。共感のない悪口は徒に反感を煽ることにしかならないからだ。

そして、共感できない悪口はストレスになる。全く知らない人だったり、直接自分と関わりのない人のの話なら「とりあえず同情する」という躱し方ができるが、特になんの感情もない人の悪口は、いくら聞き流そうとしてもストレスがたまる。

共感してもらえないと、悪口は張り合いがないので、基本的に良心がある人は信頼している人にしか悪口を言わないだろう。
そういう意味で、信用のバロメーターと言えなくもない。

学生時代、ある女の子が「友達が自分に他人の悪口を言ってきたりするからいっそ信用できる」という話をしていて、なるほどなと思ったことがある。

私が「悪口を言わない」というスタンスをとっているのは、ひとえに自己保身のためだ。
人の悪口は基本的に同調しないスタンスだが、「やめなよ」とたしなめることはあまりしない。

ある程度は「面白い」からだ。



自分の手は汚さない、とてもずるい生き方のような気もする。


でも本音を言うと、知り合いの悪口は同調するのも限界があるので、自分の胸にしまっておいて欲しいかな。