7ちゃんねるーふみねぇ支店

アラサーニートのよしなしごと

呟き162:【ネタバレあり】例の宮崎映画の感想だよ

 

開始早々、警報のサイレンが鳴る描写を見て

「やったな!」

と思った。

君たちはどう生きるか」(以下、単に「原作」とする。原作と言っていいのかわからないけど、取り敢えず題名長いから)は1937年が初出なので、戦争は関係ない。一応世間的には日中戦争の時期ではあるけれど、我々がイメージするところの「男が国民服、女がもんぺで空襲が日常」みたいな「国民の生活が脅かされる」感じの戦争は太平洋戦争時期の話なので、正直「戦争要素が全面的に出てくるようなら最早原作要素は諦めよう」と思っていた。

 

それが、初っ端からこれである。

空襲の描写かと思ったのだが、作中では「火事」と言っている。登場人物の服装が軒並み国民服ともんぺなので、戦争時代らしいことは確かだ。

「お母さんの家の方が燃えている!」

と大人たちが駆け出していく中、眠っていた主人公(小学生くらい)も寝巻きの浴衣のまま駆け出すが、子供は行かなくていい、止められる。お母さんが自宅にいない理由について、詳しい説明はなし。

主人公は寝間に戻り、急いで服を着替えて1人家を飛び出す。人混みを掻き分け、炎の中を「お母さん!」と呼びながら、走る。

この炎の描写がCGでやけにぬるぬるしているので、「ジブリってCG使うっけ」と妙な気持になる。恐らく最近のジブリ映画を見るたびにCGであれ? と思っている気がするので多分初CGはないに違いないのに、いつも違和感を抱く。

 

結局、お母さんは火事で死んでしまった。

 

2年後、お父さんが再婚し、主人公たちは東京を離れることになる。「戦争が始まって2年後」という台詞から、どうやら時代設定は1943年らしい。

 

父子が駅に着くと、人力の三輪自転車に乗って和装美人の再婚相手が登場する。主人公を見たお母さん

「こんにちは、眞一(まいち)さん」

 

主人公の名前がせめて「潤一」であってくれ、という希望も儚く砕けた。ちなみに潤一はコペルくんの本名である。時代設定的や主人公の年齢的に「原作の数年後の話」というわけではないということはわかっていたけれど、せめて少しは踏襲して欲しい感はあった。

 

お父さんは新しく何かしらの工場(この時点で説明なし)の工場長となるらしく、先に乗合バスで行ってしまう。

残された眞一はお母さんと共に三輪自転車で自宅へ向かう。

母「私が新しいお母さんよ、知ってる?」

眞一は頷く。この主人公、結構無口であまり喋らない。

お母さんは眞一の手を取ってお腹に当たる。

母「わかる? 赤ちゃんがいるの」

 

いや怖い怖い怖い!!!!

これまでの描写ではっきりと眞一の年齢はわからないのだが、恐らく10代前半くらいには見える。そんな男の子の手を取って、自分のお腹に当てるのも結構キツイし、初対面にも関わらず「お父さんとの赤ちゃんがいる」と言われても情報量が多過ぎて困ってしまうだろう。

 

三輪自転車はやがて大きなお屋敷に着いた。ジブリにありがちな、自然あふれる人里離れたところにぽつんと立っている大きな建物だ。一言で言えば、マーニーの洋館みたいな感じ。恐らく何かしらのモデルがありそうな予感がする。

お母さんは勝手知った様子で豪邸を歩き回るのだが、「なぜお母さんが豪邸に先に住んでいるのか」「お母さんが何者で、その家が地域でどういう立ち位置にあるのか」ということについて説明は特にない。登場人物の会話からもはっきりしたことはわからないのだ。

そう、この映画、設定ありきのものに違いないのに、あまりにも説明がないのである。

 

なんかもうキリないから、あらすじを事細かに追うのやめた。

 

主人公もあまり喋らない。モノローグもほぼない。「お父さんが叔母(母親の妹)と再婚して、縁もゆかりもないところに引っ越してくる羽目になった、おまけに母親はすでに妊娠している」

「田舎の小学校の生活には馴染めないし、学校に行きたくない。大怪我すれば学校に行かなくて済むかな」とか多少想像できるけれど、如何せん主人公が黙りこくっているし、引きの画面にBGMのみで行動だけ淡々と描写したりするので、そもそもあまり心理描写に介入する気がないとも言える。

登場人物の状況や立ち位置について説明が碌に無いまま進み、登場人物たちも説明口調で話したりはしないので、作中彼らが「共通認識」としているものは話題に上らない。

一応、設定がしっかり練られている証拠に、作中にポツポツと出てくる要素をつなぐとある程度状況を理解することはできる。「ああ、このお母さん(継母)は眞一の実母の妹で、その家はお金なり地位のある家なんだな」という事情などだ。そこに破綻はないので、破茶滅茶な筋に振り回されるということはない。

けれど、映像だけでは説明しきれていない部分も多いので、想像で補完しながら鑑賞するにも限界がある。

普通ならば原作の情報があれば理解の手助けになるはずなのだが、そもそもこの作品は原作が原作として機能していないので、参照する情報が何もないのだ。

 

背景に関する説明がないのと、心理描写が薄い(少なくとも事前情報なしに一度見たくらいでは全て理解することが不可能なレベル)ので、いまいち登場人物に感情移入できない。

継母に対する蟠りと、田舎の小学校に馴染めない行き場のなさから、自傷(かなり痛そうでちょっとギョッとした)して、「学校に行けない理由」を作って大手を振って休もうとしたんだろうな、というのはわかる。けれど、継母を探す冒険をしながら「生き物を捌いたり」「生き物が死ぬのを見たり」「誰かに助けられながら困難な状況を打開する経験を通して自立と助け合いの大事さを学んだり」といった「おあつらえ向きの舞台装置」をいくつも並べられているにもかかわらず、なぜか「それを通して主人公が成長する」という展開がしっくり来ないのだ。

例えばなしをしよう。

あなたは学芸会の劇で「シンデレラ」を上演することになりました。シンデレラは舞踏会に行くにあたって、仙女からカボチャやネズミ、トカゲを要求されます。それがないとストーリーが進みません。かぼちゃはいざ知らず、本物のネズミやトカゲを用意するのは至難の業でしょう。そこで「ストーリー」を進めるために、ハリボテとしてネズミやトカゲの人形を用意しました。

まるで、そんな感じ。

主人公が成長する「エピソード」は用意しました、でもその実としてはハリボテで、確かに意向としては汲めるけれど、何も響かない。

 

君たちはどう生きるか」は死んだお母さんが眞一に残した本の一つらしい。扉にメッセージが書き付けてあるのだが、後からよくよく考えたら、不治の病に伏せていたわけでもあるまいし、そんなことをするだろうか。

頭の傷でとこに伏せていた眞一は「君たちはどう生きるか」を涙を流しながら読む。

けれど、あの本を読んで、果たして眞一は何を感じたのだろうか。「友情の大切さ」? 本当に? その本で得たメッセージが彼を成長させた、というメタファーが後半で展開されるファンタジー世界における描写なら、ちょっと浅はかな気がする。

要するに、エピソードを通してなぜ主人公の心境が変化したのか、成長できたのか、という点がすんなりと頭に入ってこなかった。

 

主人公だけではない。継母も正直何を考えているのかよくわからない。なぜ姉の旦那と結婚したのか、どういう感情で姉の旦那と結婚したのか(少なくともラブラブそうではある)、義理の息子になった甥と仲良くしたそうにしているが、腹の底で何を考えているのか、いまいちよくわからないし、その心境の機微もいまいち見てとれない。読解力の不足だと言われたらそれまでな気もするけれど(私はそもそも読解力があまり高い方ではない)、それが読み取れないのを「情緒のない奴だ」と鼻で笑われたら、ちょっと憤慨したくなるような情報量の薄さだとは思う。

 

腕時計をスクリーンの光で照らして見ては、「あと何分でこの話を展開させるつもりだろう」ということばかり気になった。

 

映画が終わって、この作品が「君たちはどう生きるか」という題名がつけられたことの意味についてぼんやり考えていた。

 

あの内容における「君『たち』」とは一体誰なのか。そもそも、原作において作者が問いかける「君たちはどう生きるか」という問いと、この映画が問いかけるそれが全く同じものであるとは到底思えない。

 

映画が公開されて数日経ち、ポツポツと感想がネット上に流れ出したのを見て、驚いたことがある。

それは誰もが映画に物語としての整合性を求めていないということだ。

確かに、往年のジブリファンが見て何かを感じるような「取っ掛かり」はかなりあったように思う。ぬいぐるみになりそうなキャラクターとか、食事の描写とか、同世代の女の子との冒険とか、要するにこの作品を「ジブリ」として並べたときにこの作品を標榜する事物の多さに、なんとなく商業的な匂いというか、鑑賞者に対する「媚び」みたいなものが見え隠れしているようで、思わず顔を背けたくなった。

うん、なんだろう。

「あわよくばインスタとか何かしらのSNSでバズって欲しい、新顔もよろしく!」

みたいな?

 

好きな人の好きという感情は否定しない。

けれど、個人としての意見を言えば、物語の作り手として少し傲慢さを感じた。