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アラサーニートのよしなしごと

呟き161:【鑑賞前編】封切り初日に「君たちはどう生きるか」を見に行った話

 

遡ること数ヶ月前

確か某面接試験の直前、私はなぜか吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を十数年ぶりに手に取った。

この小説との出会いは小学生のころだ。公文の教材で読んで好きになり、原作も買ってもらい、何度も読んだ。

この小説は1937年に日本小国民文庫のために書き下ろされた小説で、よく読めば確かに「戦前の学生もの」なのだが、そういった小説にありがちな「古さからくるとっつきにくさ」はほとんどない。コペルくん(主人公)やその友達はただのいい子ちゃんでもなく、かと言って過度に戯画化されているわけでもなく、等身大の中学生だ。

 

「時代のリアル」を描写しようとし過ぎて、ほんの数年で時代遅れになっている小説はたくさんあるけれど、人間の「本質」を描いた小説はどれほど時代を超えても色褪せない。「君たちはどう生きるか」はまさしくそういう小説だった。

 

そんな理屈を捏ね出すよりもずっとから、この小説は自分を魅了していたのだから、名作にはやはり力がある。

 

ただ、読み返して気づいたことがある。それは「コペルくんの生活が現代人とあまり変わらない」ということだ。

コペルくんのお父さんは亡くなっており、お母さんと2人で暮らしているのだが、それでも何不自由なく中学に通っているので、当時としては比較的裕福な方だろう。

「女中がいる」とか「ラジオの野球中継ごっこ」とか「友達の身内が軍人」とか多少時代や世相独特の描写はあるけれど、メインエピソードで「世相」を極端に意識するような場面はあまりない。実家が豆腐屋の友達のエピソードでさえ、そこだけ抜粋したら「70年代くらいの話」で通るようなレベルだ。

だから、戦前の話だとわかったときは少し驚いたものだ。それくらい身近な話として捉えていたし、そう思えてしまうくらいコペルくんたちの姿は普遍的な中学生の姿なのだと思う。

 

この小説のキーパーソンに「おじさん」の存在がある。コペルくんの母方の叔父にあたる人なのだが、歳が離れていて、「法学士」、つまり20代前半くらいだ。

若い。びっくりした。こんなに若かったのか。そして「学士」か。当時の大学進学率からすると、超絶エリートに違いはないのだが、「学士」か。

 

小学生の頃は、小難しい「おじさんのノート」は飛ばしていたので、この機会にちゃんと読んでみた。

いや、「学士」でこんな自分の分野外のことも含めてこんなにわかりやすく説明できるものなのですかね!?例え東大出の法学士でも、現代の22歳前後の人間が、中学生相手にこんな手紙を書けるほど深い教養って持てるものなのだろうか、と考え込んでしまった。

 

で、そんなことも忘れかけていた昨日

Twitterが何やら騒がしい。

どうやら、ずっと音沙汰なかった宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」が明日から公開らしい。

 

正直、あまり興味がなかった。

「事前情報がない」という情報さえ、言われてみて初めて「そういえば確かに全然宣伝がないな」と思ったくらいだ。

映画が嫌いというわけでもないし、ジブリが嫌いというわけでもない。

君たちはどう生きるか」が原作に則った話では無さそうだ、という情報だけ薄っすら流れてきて、「ああ」と少し苦い気持になった。

 

10年前、「風立ちぬ」が放映されたとき、堀辰雄の「風立ちぬ」を読んでから映画を見に行った。個人的には「予習」のつもりだった。

世間では「ネタバレ」は忌避されることが多いけれど、私はむしろネタバレ、というか事前にあらすじやレビューを調べてから映画を見ることが多い。

というのも、ストーリーラインを把握しておいた方が映像としてみたときに話が理解しやすいし、伏線にも気づきやすくなるからだ。

 

が、「風立ちぬ」に関して、「予習」は全く意味をなさなかった。

始まってすぐ、私は心の中で叫んでいた。

「いや菜穂子って誰やねん!!!!」

小説「風立ちぬ」のエッセンスは、せいぜい冒頭の場面と、ヒロインが肺を病んでサナトリウムに行くという設定くらいだろうか。

風立ちぬ」はとても美しい小説だ。

穏やかで静かだけれど、強く、どこまでも優しい愛の描写は胸打たれるものがあって、電子辞書(青空文庫で読んだため)を前に涙が止まらなかった。

 

確かに、映画「風立ちぬ」を「作品」として見ると、とてもいい話だったと思う。が、あれだけネームバリューのある小説の題名をそのまま使っておいて、全く違う話を作ってしまうのはどうなんだろう、というしこりは残った。

 

確かに題名「自体」に著作権は無い。

けれど、ジブリや新開誠映画(「時をかける少女」とか、「君の名は。」も過去に有名だった作品と同名)のような、「世間の印象を塗り替える力がある作品を生み出す」立場の作り手が、過去のネームバリューのある作品名をそのまま使って、全く違うストーリーを描くのはどうなんだろう、という疑問は常々あった。

これらの作品は、名前を拝借した作品のオマージュの域を超え、下手すればエッセンス程度にしか元作品の要素を残していない。拝借した元作品を「原作」と言っていいのか怪しいレベルでさえある。

「ストーリーラインの根底に、元作品の要素が必要なんだ」と例え作者が言い張ったとしても、正直屁理屈だよなと思ってしまう。

世にも有名な映画「マイ•フェア•レディ」もナボコフの「ピグマリオン」という小説の翻案だけれど、決して「ピグマリオン」を題名が標榜しているわけでは無い。

全く別の作品を作っておいて、どうして題名も新しくしないのか、というのがずっと疑問である。

 

それから、10年

「で、またそのパターンなんでしょう!?」

 

ということはわかっているのに、なぜか気になってしまった。10年ぶりの宮崎駿監督作品だし、「君たちはどう生きるか」という小説は好きだし。

しばらく悩んだ。仕事だったので、「過去作から題名拝借しておいて全然違う話を作っちゃう問題」を同僚たちに披瀝しながら悩んだ。

 

それを聞いた同僚のおばさんの1人が言った。

「それだけ気になってるなら見に行けばいいじゃない」

 

確かに。

と言いつつ、「1人で見に行くのは嫌だなあ」と一瞬躊躇った。宮崎駿映画だ。ストーリーが「君たちはどう生きるか」と違ったとしても、きっとなんだかんだ言って感動してボロ泣きするような話ではあるのだろう。せっかくなら誰かと見に行って感想を共有したい。

 

が、何となく「誰」が思いつかなかったので、結局1人で見に行くことにした。うまい具合に翌日の仕事は休みときている。午後から某所の面接の予定があったけれど、その後に行くことができるだろう。所詮、面接の後は何となく心がふわふわしてしまい、無為に過ごすに違いないから、映画を見るのはちょうどいいかもしれない。

 

職場の福利厚生で、映画が安く見られるということは知っていた。よくよく調べると、どうやら1000円でチケットが買えるらしい。宮崎駿映画を公開初日に1000円なら悪くないな、と思ってチケットを申し込んだら、どうやら手持ちのポイントで更に割引できるらしい。

所持分は500ポイントあった。

 

映画のチケット1枚、500円也。

 

流石にワンコインなら、渋る理由がない。

手続きの末、無事に割引チケットを入手することができた。

 

翌日、面接が終わり、近場にちょうどいい時間帯に上映する回があったので見に行った。

 

そこで見た映画の感想は、

 

次回を待たれよ......!